顧問 長倉 達郎 挨拶

長倉

「岡山新選組準備会」顧問
新選組永倉新八載之生家

今回「岡山新選組準備会」が発足の運びと成り、心よりお慶び申し上げます。

発足までの経緯を振り返って見ますと、約二年前にさかのぼります。
東京在住の歴史研究家あさくらゆうさんからの電話から、土方歳三の側近で、土方が函館郊外の一本木関門で戦死の際に、その一報を日野の土方家に、追悼句をそえて報せた安富才助の出自に関する調査で、岡山に行きたいとの連絡により協力することに成りました。
安富は「ねね」ゆかりの元「備中足守」藩士、明治3年(1870)に江戸で阿部十郎に斬殺された ―― というのが彼の出自として伝えられていました。

岡山には「岡山県立記録資料館」があり、多くの資料を管理・保存していますが、その中の一つに足守藩主である「木下家文書」があり、一般にも公開されていますが、その中の明治2年(1869)11月に出身地足守での禁錮が決まり、12月27日には現在の岡山市藤井宿で実兄に預けられているとの記録発見につながりました。
その後も、足守に帰っていれば何らかの手掛かりに成るものが残っている筈と調査と足守での墓探しを同時進行で続けられたあさくらゆうさん。

一度は「安富姓の墓石群」を発見しましたが、残念な結果に終わりました。
しかしその安富家の方が今回「岡山新選組準備会」の代表に成られた「安富誠」さんでした。

あさくらゆうさんと共に、安富誠さんをお訪ねしたのは、平成20年の5月29日の事でした。
それからもあさくらさんと2人で、また安富さんとの3人でと、ローラー作戦の墓探しと平行しての資料調べにと、時が経過していた7月8日に、安富誠さんの親戚の方が、才助の墓を発見したとの一報が入り、7月13日に成って三人で現地に出向いて確認致しました。「岡山新選組準備会」にとっても記念すべき日です。

折しも岡山地方での「旧盆」を一ヵ月後に控えたタイミングに、それまでにせめて墓域だけでもきれいにしたいと、家内や孫の伸悟を連れ、ある時は木下家家老のご子孫の杉原康子さん親娘も協力して頂き、草取り、木の枝や竹の伐採に精を出し、薮蚊に刺された痕が赤く腫れ上がったことも今にしてみれば思い出になっています。

竹の枝が半ば覆いかぶさる状態の墓から「俺は殺されてなんかいない。ここに居るんだから、早く見付けてくれ!」と、ずっと呼び続けて居るような気がして、思わず「早く見付けられなくて御免なさい」の気持ちを込めて手を合わせました。

こうして安富才助の明治維新後の消息は、江戸での暗殺がフィクションで有ったことが判明したのです。

この事実を世間一般に報せるという作業が残っていますが、あさくらさんがそのことを地元岡山の皆さんに伝える機会を作りたいと、安富誠さんや杉原康子さん達と知恵をしぼり、とにかく新聞紙上にこの事実を報道して貰うのが早道と、山陽新聞に情報提供して掲載を依頼、しかしなかなか掲載に到らず、結局やっと新聞紙上に登場したのは四ヵ月経った11月11日に成ってからでした。

一方あさくらさんも「足立史談」への記事掲載や、講演会などで精力的にこの出来事を世間に公表されました。
地元紙とあって、私のところにも多少の反響があり、足守地区に足を運ぶ回数も増えて、「新選組の先生」と声を掛けて下さる方も出始めた翌春、東京日野市に本部を置く「日野新選組同好会」が、「土方歳三最後のメッセンジャー・安富才助を偲ぶ岡山新選組ツアー」を実施したいとの連絡が、あさくらゆうさんを介して入って来たのです。

早速私も旧知の仲である峯岸名誉局長とも、日程や行程のコース等の打ち合わせや会費設定、車の手配などに着手しました。

私の希望を入れて頂き、一番アッピールしやすい、才助の命日の5月28日(明治6年)に近い日曜日ということから、5月24日に設定して車の手配にかかりました。
当初のバス会社の見積もりによれば、参加人員20名で小型バスでの計画でありましたが、申し込みが増えてきたのを受けて、キャンセル待ちを受けることに成りますが、その人数も日増しに増えていたことから、急遽車の変更の必要に迫られるという、嬉しい悲鳴に文字通り大慌ての一幕も有りました。

それなら大型バスにして、岡山や近住のかた達にも呼び掛けてと、一ヵ月余りに迫った4月21日の山陽新聞に参加呼び掛けの記事を掲載して頂きました。

結局最終的には参加人員56名、そのうち岡山県内からは過半数の29名の参加を頂き盛況に終わりましたが、狭い場所での参観も有ったり、それはそれで苦労も有ったのも事実でした。

何人かの参加者の方とはメアドや電話・住所も交わしていましたが、このまま一度切りで会わないのは、何としても勿体ないので是非ともオフ会でも開いて再会したいとの声が寄せられました。
二週間後に早速のオフ会から、また希望者だけでもどこかに行くか、とにかく何かチャンスを作りたいし、出来れば京都などにも一緒に行けたら良いのに等の声が続出して、二回目の行事の予定を考えることに成りました。

月遅れの旧盆に、今一度安富の墓参と、折から開催中の「ねね」ゆかりの「建仁寺展」や岡山後楽園のライトアップ「幻想庭園」に水攻めで知られる「備中高松城跡」などを巡るミニツアーを8月9日に実施、ここからは当番幹事を選んでプランなどの世話をして頂く方式で進めてみることに成りました。

このミニツアー実施に際して、一番希望の多かったのはやはり新選組活躍の舞台と成った京都。
しかし夏は暑さが酷しく冬の寒さも大変な京都へのツアーは、秋まで見送った方が良いのではと先送りした京都へのツアーが、既成事実のように語り合われたのは8月29日のオフ会での様子でした。

紅葉の季節にはちょっと遅いくらいが、反って人出もそこそこでゆっくり出来るのではと、11月14日の土曜日に日程を設定しました。
もし、もっとゆっくり京都を楽しみたい方には、そのまま泊まっても翌日が日曜ならとの配慮をしたつもりの日程でした。

会の組織も無く、ただ個人から個人にという呼び掛けの輪が拡がり、この時も岡山ツアーの時同様、小型バスの予定を急遽大型に変更の交渉に、当番幹事は大わらわという、ここでも嬉しい悲鳴の状態が出現しました。

締め切って見たら、参加者37名と45名定員の大半の座席が埋まりました。
私も自分で言うのはおこがましいようですが、隊士子孫としてこれまで私を引き立てて下さったり、いろいろと御交誼頂いている人脈をフル稼働して、二・三のサプライズ企画を用意して参加者の皆様方に喜んで頂き、「子孫の方が一緒でなければこんな企画は無いと思います。有意義な一日を本当にありがとう御座いました」とのメールや御手紙や電話を、参加の大半の皆様から頂きました。

そんな声を頂いて、私も身体に気を付けてこれからも皆様方と、もっともっと私の知っている新選組の話、新選組を取り巻く幕末のいろんな話をして、また幕末に関連したいろんなところを訪ねて行く、そんな会が岡山に出来れば良いのにと考える様になりました。

皆様方の思いも同じだったようで、今回岡山にそうした会の設立を前提とした「岡山新選組準備会」が立ち上げられることに成りましたことは、自分自身の希望を、多くの皆様方の総意によって叶えて頂き、本当に嬉しくもしかしたら一番喜んでいるのは、この私ではないのかな?等と感じたりしています。

会を立ち上げるには、本当に大きな力というか、新選組や幕末期の先人たちに対しての熱意を感じますが、産声をあげたばかりの準備会を力を合わせて育てて行くことは、生む以上に大きな努力と、会に対する深い愛情が必要と、既設の同好会などの世話役の先輩方から聞かせて頂きました。

どうか今回準備会として生まれた会を、皆様のご努力と愛情で全国知られる、立派な同好会に育てて下さい。
私も新選組隊士の子孫として、また準備会の顧問としてこの会の発展を応援させて頂きたいと思っています。

今回の「岡山新選組準備会」の設立、本当におめでとう御座います。

顧問 長倉 達郎


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